わかば農園

1985年からの、少し長いお話
「すべての人が、地域で普通の生活をする」
「わかば農園」の母体、社会福祉法人若葉は、
1980年に障がいのある子どもを持つ親の会として始まりました。
若葉の長、副島宏克は、この集まりの中心人物でした。
副島の娘は重度の障がい者でしたが、
集まっている人の中には、自分の意思を伝えることが難しい、
もっと重い障がいのある人がたくさんいました。
この状況を見て、副島は
「自分の娘1人だけなら、家庭で面倒をみることができるだろう。
だが、ここに集まった多くの人は、どうなるのだろう。
親の力だけでは支えきれない人たちがたくさんいる。」
「誰かが何とかしなければならない。」
と思ったと言います。
副島は1985年に、脱サラを決意します。
仕事を辞めてすぐに、
因島の沿岸、小さな過疎の集落で、
障がい者数名とスタッフ1名と
農業を始めました。
百姓仕事は集落の方が教えてくれました。
親身になってくれた集落の方たちが野菜を買ってくれました。
副島は集落の方のありがたさを強く感じました。
同時に「ここにずっといてはいけない。」
「障がい者が、地域に存在していることをもっとたくさんの人に知ってもらわないといけない。」
と思いました。
当時は成人した障がい者は、山奥の入居施設に入って一生を過ごすか、
自宅からほとんど出ずに過ごすということが当たり前のような時代でした。
そこに副島の問題意識はありました。
副島は、自分の考えを周りの人に伝え続けました。
熱意が伝わり、多くの支援を受けて、1年後には因島の町、中庄に作業所「であいの家」を作ることができました。
ここでは、「障がい者が、地域に存在していることを知ってもらう。」ために、公園を管理する仕事をはじめました。
町の公園を障がい者が掃除することは当時画期的なことでした。
他にも、障がい者に給料を支払うために、色々な仕事をとってきては、一緒に働きました。努力の甲斐があって、一緒に働いている障がい者に数万円の給料を渡せる売り上げがたつようになりました。
しかし、売り上げは障がい者のためのものです。
スタッフに支払うお金はありませんでした。
副島はスタッフへの給料を稼ぐために、
塾のアルバイトを始めました。
塾の場所は、
活動を応援してくれる人が提供してくれました。
平日は、夕方5時まで障がい者とヘトヘトになるまで汗を流し、
その後夜の10時まで塾で教えました。
塾の生徒はどんどん増えていき、
土日もなく働き続けました。
そのころを振り返った、副島の息子は、
「父親は家にいないものだと思っていた。」
と言います。
そんな生活が5年続いた1990年。
副島たちは、
国から社会福祉法人の認可を受けることができました。
「すべての人が、地域で普通の生活をする」
を理念に掲げ、
1991年に、
社会福祉法人若葉 因島であいの家を立ち上げました。
その後も、福祉事業所やこども園、相談事業所などをいくつも立ち上げ、
政治家、役人、障害を持つ子の親、などなど、
日本中から見学者がたえない法人にまでなりました。
わかば農園は、社会福祉法人若葉の農園です。
今では多くの野菜や果樹を育て、サステナブルな農業を展開していますが、1985年に過疎の集落で農業を始めた副島の意思を引き継ぎ、活動をしています。
もちろん、わかば農園の最終目標も
「すべての人が、地域で普通の生活をする」ことです。
最終目標に向けて、
一つ一つの農産物を皆さんに届けていきます。
2024年
社会福祉法人若葉
わかば農園
東 祥平 記